玄奘三蔵

西遊記からの疑問

筆者が子どもの頃から、西遊記の三蔵法師に興味があり、様々な疑問が残りました。 本当に孫悟空や猪八戒などとインドまで行ったのだろうか。 インドに何のために行ったのだろうか。砂漠を歩くとはどんな状況なんだろうか。お経の本をどうやって運んだのだろうか。まだまだ、疑問は尽きませんでした。
三蔵法師はわざわざ歩かなくても孫悟空のきんと雲に乗せてもらえば、一気に天竺までワープ出来るのに。とも思いました。

それから四十数年後、そんな疑問を紐解いてみようと思い、大唐西域記などの本を読み、更に、中国、ウズベキスタンやインドなど玄奘の足跡を訪ね取材してみました。
実際に砂漠や草原を歩いてみることは出来ませんでしたが、経路を線ではなく、点としてだけでも触れてみました。


東京国立博物館蔵

玄奘三蔵という僧

俗名は陳緯(?)。13歳くらいに得度して玄奘を名乗り、兄とともに長安に出る。
その後、成都・荊州などもまわって各地で仏教を学びますが諸師の教える所がまちまちで互いに矛盾を含んでおり、どれが正しいのか悩む。
やがてそれを確かめるにはインドに行って原典を取ってくるしかないと決意する。
かれはその旨を太宗皇帝に三度も願い出るが、当時は国外への旅行を禁じていたため却下される。
とうとう貞観7年(633)、彼は国禁を犯して無断で玉門関を越え、国外に出る。
数々の困難、そして高昌国の国王の歓迎と援助などがあった。
最終目的地ナーランダに到着した。ここにはナーランダ僧院(大学)があり、5年の間、仏教、科学、薬学、医学を学んだ。最後の2年は教授として教鞭についた。
帰国の途では天山山脈の南側を通るルートを選び、国境まで到着した。
そこで、玄奘は国境まで来ると禁を犯して国を出たことをお詫びし、自分が多数の経典を持ち帰ったことを報告する手紙を太宗皇帝に出し、返事を待つ。
許可がおり、貞観19年(645)1月に長安に帰着した。持参品は膨大な経典、仏像など(馬22頭で運んで来たらしい)である。
帰国後、国家事業として翻訳に取りかかる。
旅の様子を弟子に口述筆記させ「大唐西域記」としてまとめた。



玄奘三蔵は何を持ってきたのか

経典 520夾 657部
仏舎利 150粒
仏像 7躯
 その内訳
1)マガダの前正覚山龍窟留影の金仏像 3尺3寸
2)ヴァーラーナシーの鹿野苑初転法輪像を模刻した檀像 1尺5寸
3)カウシャーンビーのウダヤナ王が如来を思慕して真形を刻した檀像を模刻した檀像 2尺9寸
4)カピタ(サンカーシャ)に如来が天宮より宝階を降下された像を模した銀仏像 4尺
5)マガダの霊鷲山で法華経などを説かれる像を模した金仏像 3尺5寸
6)ナガワハーラの毒龍を調伏し影を留められた像を模して刻んだ檀像 1尺5寸
7)ヴァイシャーリーの巡城行化の像を模して刻んだ檀像 高さ不明


「大唐西域記」玄奘紀行図
「大唐西域記」平凡社刊から転載し、ルートを彩色

このページの先頭へ