開宗からのあゆみ

法然上人伝の多くが語るように、上人が諸行を捨て専修念仏(せんじゅねんぶつ)に帰したのは、承安5年(1175)の春3月です。

恵心僧都の『往生要集』を読み、その教えにより中国の唐代の善導大師の『観経疏』の一心専念の文、即ち

「一心に専(もっぱ)ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時節の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業(ごう)と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」

の文によったのであり、この時より以後、上人は比叡山を下りて、まず西山の広谷に専修念仏の実践者であった遊蓮房を訪ねて、その念仏生活に感激し、 東山の吉水におもむき、そこに草庵をむすび往生極楽の法を説き、念仏を人々にすすめられる生活にはいられました。

これまでの聖道門(しょうどうもん)各宗の教えは、学問のある者、財力のある者におのずから限られてしまったが、法然上人の念仏の教えは、いつどこでも誰にでも行える念仏であったので、上人の東山の庵室には老若男女の別なく、多くの人々が集まり集団を形成したので、この時をもって浄土開宗としたのであります。 その後、法然上人は洛北大原の勝林院で、天台宗の顕真(けんしん)法印の発議により、他宗の僧と仏教の教えについて広く意見を交換するため、三論宗の明遍、法相宗の貞慶(じょうけい)、天台宗の証真、湛★(たんがく)、嵯峨往生院の念仏房、東大寺の重源(ちょうげん)等の当代一流の僧を招き、上人はその席で浄土念仏の法門が今の時代の多くの人々に適した時機相応の教えであることを述べ、諸上人に深い感銘を与えました。これを後に大原談義とか大原問答といい、時に上人54歳。この頃から次第に念仏の教えが社会に広く受入れられてきました。。

また、建久元年(1190)には、重源の要請により東大寺で浄土三部経の講説を行うなど積極的な伝道教化を進めました。門弟には黒谷別所で兄弟弟子であった信空をはじめ、 感西等がいたが、この頃から証空、源智、弁長、明遍、熊谷直実などが入門しています。

また文治5年(1189)には時の摂政関白 九条兼実公との道交がはじまり、建久9年(1198)には兼実公の請いをいれて、『選択本願念仏集』を書き、これを兼実公に献上された。但し病後のためか冒頭の題字と「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先」の21字だけは自らが書かれたが、あとの本文16章は口述して門弟に筆記させられたものです。弟子のうち 真観房感西は執筆の役をつとめたといわれ、この草稿本(原本)は今も京都廬山寺に伝えられて国宝となっています。

またこの頃、『観経疏』によって心眼を開かれた上人は夢定中に於て半金色の善導大師と対面され念仏の法を授けられたといいます。

上人の門弟も増え、念仏が京都をはじめ北陸、東海、西海にまで広まるにつれて、これまでの仏教教団からの圧迫も激しく、特に、元久元年(1204)は比叡山延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を座主真性に訴え、翌2年(1205)には奈良興福寺の衆徒が奏状を捧げて念仏の禁断を朝廷に訴えました。 このような時に、上人の弟子の住蓮、安楽が京都東山の鹿ヶ谷で六時礼讃法要を勤めたところ、多くの人が集り発心出家する者が出たのです。その中に、後鳥羽院の熊野行幸の留守をあずかる院の女房が無断で発心出家するという事件が起こりました。このことを院に悪意をもって申し上げる者がいたので、住蓮、安楽は死罪になり、さらにその前後の事情もあって、門弟の咎が師の上人まで及び、四国の讃岐へ流罪という事になりました。時に上人75歳でした。

配所の化導1年足らずで赦免になり、摂津の勝尾寺に入り、ここで5年の月日を送られ、やがて建暦元年(1211)11月入洛の宜旨が下り、20日慈鎮和尚(慈円)の計らいで東山大谷禅房に入られ、翌年の正月25日お念仏を称えつつ安らかに往生をとげられたのです。世寿80歳。それより2日前の23日、これまでの念仏の教えを簡潔にまとめられて弟子源智に授けられました。後世『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)とよばれ、上人最後の御遺訓となりました。この『一枚起請文』は今も大本山金戒光明寺に伝えられています。

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