伊賀守にまつわる錦絵

篠塚伊賀守は太平記に7回も登場し、江戸時代までは南北朝時代の有名人の一人となっていました。 また、江戸時代には、篠塚伊賀守を三国志の関羽になぞらえた「篠塚五関破」という歌舞伎までつくられていました。 何しろ、豪傑で金棒を振り回しているのですから、今で言うキャラが強く映ったのでしょう。 そこで、錦絵も多数刷られたようです。
下記以外にも伊賀守が描かれているいくつかの錦絵に出会いましたが、所蔵していないので掲載できません。

錦絵 篠塚伊賀守重廣 沖之島に渡るの図

絵師 歌川國芳(1797~1861) 安政2年 (1855) 画 大信寺 所蔵 36×24cm
伊賀守一人で敵船を乗っ取り沖之島に渡る「太平記」の一場面
この絵と同じ錦絵を2006年9月に東京神田の錦絵専門店東州斎にて入手し、魚島訪問の折りに寄贈、現在、亀居神社にも保管されている。




錦絵 篠塚伊賀守 足利軍の旗を臨む

渡辺嘉造伊氏 寄贈 大信寺 所蔵 34×16cm




錦絵 新田義貞鎌倉合戦

絵師 一寿斎芳員(よしかず) 嘉永6年(1853)画 大信寺 所蔵
36.6×74.1cm 
伊賀守が中央上で黒い金棒を振り上げている。




錦絵 新田足利合戦図

歌川芳虎筆 大信寺 所蔵
伊賀守が中央下で黒い金棒を持っている。




錦絵 建武二年新田足利三井寺合戦図

芳員筆 大信寺 所蔵
三井寺は比叡山東麓、琵琶湖に面した古刹ですが、当時、寺と言っても堀を巡らせた城郭で、その堀にかけてあった橋をはずされてしまったために、新田方は攻めあぐんでいた。そこで、伊賀守がそばにあった大きな卒塔婆を「卒塔婆を立てるも橋を渡すも功徳は同じ」と、えいと引き抜き、軽々と運んで堀に渡した。その場面を描いた錦絵です。
伊賀守が中央下で卒塔婆を持ち上げ、橋を架けている。
安政元年 約36×74cm




伊賀守の拡大図


 

錦絵 三井寺合戦

絵師 歌川國芳筆(1797~1861) 大信寺 所蔵
右上に「三井寺合戦 新田四天王栗生篠塚畑亘理勇力顕三井寺軍勢ヲ破」とある。
伊賀守が中央下で卒塔婆を持ち上げ、橋を架けている。 國芳筆の方が芳員筆(上図)よりも豪傑らしく描かれている。
 約38×76cm




伊賀守の拡大図


錦絵 新田足利 山崎大合戦 

絵師 歌川芳虎筆 大信寺 所蔵
右上に「建武三年正月九日 新田足利 山崎大合戦」とある。建武三年は西暦1336年。
歌川芳虎は江戸時代末期から明治時代中期にかけての浮世絵師で、この絵は弘化4年~嘉永5年(1847~1853)に描かれた。 。
 三枚続 約37×76cm




伊賀守の拡大図


錦絵 新田足利兵庫合戦 義貞之兵出張之図

絵師 歌川芳虎筆 大信寺 所蔵
伊賀守が中央で先陣を切り、さすまたを振りかざしている。 海の向こうには足利之軍船がひしめき合っている。
三枚続のうち右側が欠損している その右側には新田義貞が描かれていた。約35×50cm




伊賀守の拡大図


最近、欠損している右側と中央部分を入手したので掲載する。




錦絵 篠塚伊賀守騎馬図

絵師 二代目歌川広重(重宣)筆(1826~1869) 大信寺 所蔵

 約33×22cm


錦絵 伊賀局 化け物に逢ふ事

月岡米次郎 筆  明治19年 大信寺 所蔵
伊賀守の娘に篠塚伊賀局(いがのつぼね)(?~1384年10月)がいた。 三位局(さんみつのつぼね)廉子(れんし)(後の後醍醐天皇の后 新待(しんたい)賢門院(けんもんいん))に仕える侍女であり、後に楠木(くすのき)正成(まさしげ)の三男、楠木(くすのき)正儀(まさのり)に嫁いだ。
吉野(よしの)拾遺(しゅうい)(吉野の朝廷のことが記されている説話集)によると
伊賀局 化物に逢ふ事
後醍醐天皇が崩御され、後村上天皇が再び吉野の行宮に移った時も廉子が同行し、伊賀局もお供をした。 その時、正平2年(1347)6月10日の夜、暑い夏のことだったので、伊賀局は一人で庭に出てみると、大きな松の枝が垂れて、その間から月がこうこうと明るいので、思わず、
「涼しさを松吹く風にわすられて 袂(たもと)にやどす夜半の月影」
と、即興の歌を口ずさんだ。
すると、誰もいないと思った松のこずえかの方から、
「心静かであれば身もまた涼し」
という古い歌の下の句をいう者がいた。
見上げると、鬼の形をした化け物が翼を広げて伊賀局の方を見下ろしていた。
「あなたは一体何者です。名を名乗りなさい!」
というと、その化け物は、 「わたくしは、藤原の基遠(もととお)でございます。廉子さまのために命を捨てて働いた者ですが、いまだに死後を弔って貰えないのでこんな姿になっているのです。これでは浮かばれないので、恨みを言おうと思っていたのです。どうか、このことを廉子さまに申し上げて下さい。」 と叫びました。伊賀局は、
「世の中が乱れに乱れているので、廉子さまもお忘れになっているのでしょう。わたくしが申し上げて弔って上げましょう。その時、どんなお経を読んだら良いのでしょうか」
と聞くと、化け物は、
「法華経を読んで下さい」
といって、まもなくフっと姿を消してしまいました。 伊賀局は早速、廉子さまの前に行き、このことを話したところ、
「わたくしはすっかり忘れていました。本当に申し訳ないことでした」
と恐縮しておられました。
早速、翌日、吉水の法師に頼んで、37日の間、法華経を読んで貰いました。 お陰で、その後は藤原基遠も成仏することができたのか、化け物も出なくなりました。
との場面を錦絵にしたもの。




錦絵 

絵師 歌川國芳筆(1797~1861) 大信寺 所蔵
3枚組の左側の1枚と思われる。奥に楠の軍勢が描かれている。




錦絵 芳年武者無類 篠塚伊賀守貞綱

月岡米次郎 筆 明治19年 大信寺 所蔵
篠塚伊賀守重廣ではなく貞綱となっている。 三井寺の合戦にて伊賀守が卒塔婆を持ち上げ、橋を架けている場面




錦絵 敏馬浦焼討之図

歌川芳虎筆(一猛齋芳虎) 大信寺 所蔵
敏馬浦(みぬめうら)は現在の神戸市灘区も海岸




錦絵 太平記大合戦

一壽斎 芳員筆 大信寺 所蔵
篠塚伊賀守が式部大輔 時家との騎馬戦が描かれている




錦絵 稲村ヶ崎

二代目歌川広重(重宣)筆(1826~1869)) 大信寺 所蔵
稲村ヶ崎にて新田義貞が太刀を海に投げ込む場面である。 3枚組のうち、中央部分が欠損していたが、後に、右側と中央部分を入手し、3枚揃いとなった。ただし、右部分は2枚もある。




錦絵 新田義貞十六騎の英雄と倶に兵庫なりてふ出張しき尊氏の六十万騎と戦ふ図

絵師 國芳筆 大信寺 所蔵
紙面が少々黄ばんでいる。中央上部に十六騎の氏名が描かれている。




錦絵 新田義貞 篠塚八郎

絵師 一峯斎 芳亀? 筆 大信寺 所蔵




錦絵 篠塚伊賀守

絵師 不明 大信寺 所蔵




錦絵 篠塚伊賀守

絵師 不明 大信寺 所蔵




高名武勇伝 篠塚伊賀守貞綱

絵師 一猛齋芳虎 筆 大信寺 所蔵


高名武勇伝 畑六郎左エ門時能

絵師 一猛齋芳虎 筆 大信寺 所蔵
畑六郎左エ門は伊賀守と並んで新田四天王の一人である。


高名武勇伝 畠山重忠

絵師 一猛齋芳虎 筆 大信寺 所蔵
畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。
頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれた。(畠山重忠の乱)
篠塚伊賀守の先祖に当たる。


錦絵 帆柱を立てる篠塚伊賀守

絵師 不明 大信寺 所蔵




前賢故實 篠塚伊賀守 挿絵

絵師 不明 大信寺 所蔵

前賢故實(ぜんけんこじつ)は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集。 全10巻20冊。菊池容斎筆。上古から南北朝時代(後亀山天皇の代)までの皇族、忠臣、烈婦など585人を時代を追って肖像化し、漢文で略伝を付す。(引用 Wikipedia)
本書には篠塚伊賀守と伊賀局が掲載されている。



前賢故實 伊賀局 挿絵

絵師 不明 大信寺 所蔵




繪本武勇

絵師 不明 大信寺 所蔵
和綴じ本 新田四天王を中心に武勇伝が描かれている。13ページ以降は破られて欠損している。























新田左中将兵衛督 源朝臣義貞公之像 新田勇臣之図

絵師 不明 大信寺 所蔵
和綴じ本を表具し巻物仕立て 最後に系図を掲載




























Ver.1 2009/07/06
Revised 2010/01/31
Revised 2011/01/09
Revised 2013/05/18
Revised 2015/02/03

このページの先頭へ