篠塚伊賀守 波乱の生涯
篠塚伊賀守重廣(しのづか いがのかみ しげひろ)は篠塚に生まれ、新田義貞の鎌倉攻めで勇名をとどろかすなど、新田四天王の筆頭に数えられる。その活躍ぶりは南北朝の動乱を描いた『太平記』に七回も登場する。境内北にある御廟には宝篋印塔(ほうきょういんとう)が祀られ「大信寺殿智証大禅定門」、暦応三年(1340)五月六日と刻まれている。
また、御廟内には、重廣が船で茨城県波崎に上陸し、そこに記念に置いた船の碇石の複製がある(実物は茨城県波崎に現存)。重廣の娘、伊賀局の歌碑も建てられている。
ここで、次の解説は、「篠塚伊賀守と篠塚家伝来の什宝展」(平成18年4月7日(金)~16日(日) 邑楽町立図書館 主催:浄土宗大信寺 後援:邑楽町教育委員会 上毛新聞社 群馬テレビ)における解説パンフレットから引用したものである。
篠塚伊賀守プロフィール
本 名 | 篠塚重廣(しのづか しげひろ) 後に 篠塚伊賀守重廣(しのづか いがのかみ しげひろ) ( 重広 とも書く) |
生 年 | 延慶2年(1309) |
出身地 | 現在の群馬県邑楽郡邑楽町大字篠塚2811番地 付近 |
没 年 | 不詳 (大信寺境内の宝篋印塔には暦応三年(1340)五月六日とあるが31歳没となってしまう) |
法 名 | 大信寺殿智證大禅定門((だいしんじでんちしょうだいぜんじょうもん) |
身 長 | 6尺5寸(195cm) |
武 器 | 4尺3寸(129cm)の太刀 8尺(240cm)の金撮棒(金棒) |
得意技 | 蹴り倒し(ドロップキック)、金撮棒をブンブン振り回す、城門破り、とにかく怪力 |
役 職 | 新田義貞の四天王の一人 |
有名度 | 太平記には7回登場 江戸時代までは南北朝時代の有名人の一人。 江戸時代には、篠塚伊賀守を三国志の関羽になぞらえた「篠塚五関破」という歌舞伎までつくられていた。錦絵は多数(3枚を展示) |
職歴(戦歴) | 太平記を参照 |
賞 罰 | 伊賀守を賜る (鎌倉攻めの功績により 後醍醐天皇から) |
家 族 | 娘 伊賀局(右のパネル参照)がいた。 その他は不明 |
先 祖 | 桓武平氏 - ・・ - 畠山重忠 - 畠山重秀 - 篠塚重興 - 篠塚□□ - 篠塚□□ - 篠塚重廣 (□□は不詳) |
末 裔 | 現在も茨城県をはじめ全国に在住 篠塚伊賀守奉賛会を組織 毎年4月大信寺にて伊賀守法要を営む |
略 歴
年齢 | 西暦 | 和暦 | 行動 |
0 | 1309 | 延慶2年 | 篠塚にて誕生 |
24 | 1333 | 元弘3年5月6日 | 鎌倉討ち入り |
27 | 1336 | 建武3年1月12日 | 三井寺攻撃 |
29 | 1338 | 延元3年7月 | 新田義貞戦死 |
31 | 1340 | 興国元年10月 | 吉野に到着、後村上天皇に拝謁 |
33 | 1342 | 輿国3年4月1日 | 四国へ遠征 |
33 | 1342 | 輿国10月19日 | 世田城落城し、沖之島(魚島)に上陸 |
36 | 1345 | 輿国6年 | 常陸国波崎に上陸 篠塚稲荷社を経て 武蔵国足立郡下(菖蒲町付近)に潜伏す |
時代背景
篠塚伊賀守が活躍した時代は動乱の南北朝時代である。
南北朝時代とは、鎌倉時代の後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の即位、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの57年間を指す。室町時代の初期に当たる。
伊賀守 生家 篠塚城
元久2年(1205)6月23日、畠山重忠及び重秀父子が戦死すると菅谷館にいた家人の宮野友右衛門左近が重秀の子とその母(足立遠元の娘)を連れて碑文(ひもん)谷(や)(東京都目黒区)に逃れ、暫くして母子だけが母の実家である桶川の足立遠元屋敷に落ち着き、承元2年(1208)、同族の上野(こうづけ)国(のくに)守護である安達景(あだちかげ)盛(もり)に招かれて佐貫庄(さぬきのしょう)篠塚に住み、建保6年(1218)に元服して篠塚重興(しげおき)と称し、承久2年(1220)、17歳で篠塚領主となる。篠塚重興4代の嫡孫が篠塚重廣である。
篠塚城は総面積3.5ヘクタールと広大であり、内壕と外壕とに囲まれた二重壕形式であった。現在は、土壕の一部と八幡神社(戦後、現在地に移転)毘沙門堂(当時の大手門付近)が残っている。
八幡神社
伊賀守墓所
篠塚駅南の足利赤岩県道沿いに1本の杉の大木がある丘の上に篠塚伊賀守の廟墓がある。石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)と山神(さんじん)の石宮とが並んでいる。宝篋印塔には右図のとおり刻まれている。
伊賀守の法名は大信寺の過去帳や篠塚系譜及び小澤家に伝わる大位牌には、
大信寺殿智證大禅定門
武名(俗名) 篠塚伊賀平重廣と記されている。
暦応三年五月六日を命日としている理由は不明である。暦応3年では、まだ31歳である。暦応3年は北朝側の元号であり、南朝側では興国元年に当たる。おそらく、篠塚の地は足利氏(北朝側)の勢力だったので、暦応を使わざるをえなかったものと思われる。伊賀守が沖之島に渡ったのが興国3年9月3日を史実としているので命日では矛盾がある。
南北朝の動乱の後、足利氏の室町幕府となってからは、南朝にゆかりのある人々は世を忍ぶ存在となった。したがって、南朝の伊賀守の墓も郷土の人々や子孫達によって、この地にささやかに造られ、傍らに山神の社を祀って、密かに供養が営まれるようになり、江戸時代には山神さまのお祭りとして地元の人々の年中行事になったようである。
新田義貞の鎌倉攻め
13世紀中頃から御家人の生活が苦しくなり、彼らの鎌倉幕府に対する不満が高まってきた。これに対して北条氏は、権力を集中して専制を強めたが、足利、新田のような有力御家人は北条氏に対する不信を深めていった。文保2年(1318)皇位に就いた後醍醐天皇は院政を廃止し、天皇親政を復活した。
一方、幕府では執権に北条高時が就いたが、政治も裁判も賄賂で決まる有り様で、幕府の権威はまったく衰えた。この情勢を見た後醍醐天皇はすぐれた人材を登用し、倒幕計画を推し進めた。正中の変、元弘の変の二度の計画は失敗し、天皇は隠岐に流されたが、有力御家人たちの倒幕運動は活発化した。楠木正成は河内の千早域で幕府軍と戦い、新田義貞も鎌倉を攻めた。
元弘3年(1333)1月、新田義貞が幕府側についていたので、篠塚重廣も従って、楠木正成を攻めに千早城(大阪市)にいたが、急遽、義貞は病気と称して一旦、上野国(群馬県)の居館に引き返して待機していた。義貞は後醍醐天皇の子・護良(もりよし)親王から頂いた令旨を見て、後醍醐天皇に味方しようとひそかに決意し、幕府には病気と称して郷里の上野に帰ってしまったのである。
その後、5月始めの頃、北条幕府の使者として黒沼彦四郎、明石出雲介の二人が義貞の所領を訪れ、「きょうから3日間に金子6万貫を差し出すように」と命令した。この時、名張八郎と篠塚重廣がこれに応対したが、二人は大将の義貞が勤皇の旗揚げするには、黒沼、明石の使者と軍神の血祭りにするのが一番早道だと殺してしまった。
これがきっかけとなり、今後について軍議がなされ、利根川にて迎え撃つか、越後へ避難するかそれとも進軍するかを協議したが、脇屋義助に進言により鎌倉攻めを決意した。
生品神社での旗揚げ
篠塚重廣のもとに義貞より「鎌倉攻めに出発するため至急参陣するように」との使者が来た。鎌倉幕府に仕方なく従っていた義貞も、いよいよ北条一族の悪政に反発ののろしをあげたのである。篠塚重廣は出陣するに当たって、まず部下を従えて氏神の長柄神社に勝利を祈願した。
それから、家祖畠山重忠がかつて北条家から憤死させられた遺恨を晴らす好機がめぐってきたと、喜び勇んで新田軍の下に馳せ参じた。
反町(そりまち)(群馬県太田市新田反町町)の館に着いてみると、続々と味方の兵が集まり、総勢150騎ばかりになっていた。
5月8日、総大将 新田義貞、副将 脇屋義助の下に集まると、一同は近くの生品(いくしな)神社に戦勝を祈願して社前に旗揚げした。義貞は、社前に先に頂いた令旨を三度拝し、幕府討伐を誓った。一行は奮い立つ気持ちで鎌倉を指して出発した。軍勢わずか150余騎であった。
金龍寺(太田市)には、その時の古文書があり、150余騎の中に篠塚伊賀守重廣と名を連ねている。
小手指原の戦い
鎌倉街道を南下する途中で、まず越後の同族の軍勢が多く参加し、次いで付近の同志が続々と参加して総勢3万数千騎となった。それは、北条に反発する武将がいかに多かったかを物語っていた。
小手指原(埼玉県所沢市)まで進むと、鎌倉の北条方から金沢貞将、桜田貞国ら、新田軍を迎え撃つ軍勢と遭遇した。
このとき篠塚重廣は、
「今夜のうちに北条方に夜討ちをかけるのがよろしゅうございましょう」
と義貞に進言した。義貞は、
「味方も疲れていることだし、夜の明けるのを待って、明け方戦うのがよい」
と言ってこれを許さなかった。そこで重廣は誰にも知らせず、ただ一人敵の中に忍び入り、二十人ばかりいる番兵のところに行って、
「この陣の本隊はどこにあるのか。おれは篠塚重廣だが、今夜この陣を攻め散らすためにやって来た。さあ、案内しろ」
と言ったので、番兵たちは恕って手向かって来た。篠塚重廣は、重さ16貫(60kg)もある鉄の棒をふり回して暴れまわり、たちまちのうちに番兵たちをやっつけた。
この物音で、方々の陣所が騒出し、中にはあわてふためいて打ちかかってくるものがある。篠塚重廣はただ一人、当たるを幸いなぎ倒し、このために敵方は大騒ぎとなったが、味方を新田勢が攻め寄せたのだと、勘ちがいして逃げだしてしまった。重廣は思う存分の働きをしたのち、倒れた敵兵のそばで、腰を下して味方が来るのを待っていた。
夜が明けて、物見の兵が義貞の陣に立帰り、
「北条の陣には敵兵だれもおりません。重廣殿一人が敵をみんなやっつけて、味方の来るのを待っております」
と報告したので、義貞は篠塚重廣の武勇に大変感心したと同時にそのあまりの強さにあきれはてたという。
分倍河原の戦い
14日になると、鎌倉勢は後詰めとして北条泰家を送り、逃出した先鋒、金沢貞将と共に分(ぶ)倍(ばい)河原(がわら)に陣取っていた。義貞軍の栗生左衛門が真っ先きに打って出たが、敵に取囲まれて苦戦に陥ってしまった。
二陣に控えていた篠塚重廣は、これを見て栗生を救おうと駈け出し、鉄の棒で敵をなぎ倒し、奪闘すると、義貞は、
「栗生を討たすな。篠塚を救え」
と大声をはり上げて采配を振った。これを見て、新田勢は一斉に馬煙りをあげて斬込み、鎌倉勢はたまらず崩れ去った。
しかし、翌15日、新田勢は勝ちにまかせて敵中深く進みすぎた。山の上に合図が上がったのと同時に、大勢の伏兵が現れて、新田勢を押包んでしまった。このため、主従は別れ別れになり、義貞も馬を射られ、徒歩となって敵と渡り合ったが、そこへ篠塚重廣が真一文字に駆け寄ってきて、鉄棒を風車のように振回し、やっとのことで義貞を救い出すことができた。
そのうち、新田勢の援軍が方々から駆けつけ、勢いを盛返して進撃し、17日には鎌倉周辺にまで追った。
この時の鎌倉攻めの中核となった諸将は、いうまでもなく、太田の金山を中心にして、周辺に分布していた領主や武士達である。新田義重公以来の新田氏の一族である脇屋、大島、江因、綿打、金井、船田、細谷、岩松、世良田、大舘、堀口らの諸将をはじめ、新田一門ではないが、元は平氏の畠山重忠を祖として、太田と館林の中間にある篠塚を領有していた篠塚重廣もこの軍勢に加わった。
これらの新田の一族郎党が中心となった軍勢、日ごろから新田に心を寄せていた附近の諸将、あるいは北条幕府に折あらば一矢を報いようとしていた近隣の諸将たち、また、時の勢を見越して、「北条氏久しからず」と判断した人たちが、道を進むにつれて加わり、次第にふくれ上がって、あの大軍となったのだった。
鎌倉攻め
新田義貞軍の鎌倉攻撃は、巨福呂(こぶくろ)、化粧(けわい)、極楽寺(ごくらくじ)の三手に分かれて行なわれ、篠塚重廣がそのうちの一番難所といわれる極楽寺坂口から攻撃に加わった。
巨福呂坂というのは、いまの円覚寺から建長寺前を通って鎌倉にはいるところで、この方面と、化粧坂から攻め込んだ新田軍は、容易に敵を突破して鎌倉の中に進むことができたが、極楽寺坂方面は、土地が険しい上に守りが固く、なかなか突破できず、深入りしたため大将の大館宗氏が討死するという苦戦に陥った。
そこで、中央方面にいた義貞も、この極楽寺坂に応援にかけつけ、さらに山岳戦になれている河内国の楠氏一族の和田の身内、三木俊運らが加勢に来た。
おそらく、護良親王が新田氏と楠氏の中に立っていたので、加勢にきたと思われる。
こうして総力を結集し、ようやく極楽寺坂口を突破することが出来た。義貞は、稲村ヶ崎の突端に立ち、黄金造りの太刀を海に投入れ、わが軍のために海水が引くようにと竜神に祈ったところ、満潮だった海がさっと引き、干潟が現われた。新田軍はそこを通って鎌倉に攻入ったことはよく知られている話である。
新田軍が由比ヶ浜に一歩前進すると、そこには敵の大軍が控えており、その敵軍の中からただ一騎、雪毛の馬にうちまたがって白い鞍を置いて、濃い紅の笠印を浜風になびかせながら、走ってくる武将があった。名乗るのを聞くと、その武将は北条方の侍大将、島津太郎だった。
これを見た味方の方は、栗生、篠塚、畑、亘理などの新田四天王をはじめ、大勢の人たちが一斉に飛出し、双方で名乗りをあげ、一騎打ちに移ろうという場面になったが、島津太郎は馬から飛降りると、兜をぬいであっけなく降参してしまったということである。
その後、三方面から新田軍は街中になだれ込んだ。と見ると、幕府近くにある北条家の宝物庫が火焔に包まれて燃え上がっている。駆け付けて表戸を破って中に飛び込み、大事そうな物から何点かを運び出すことができた。
やがて北条高時以下大勢の将兵が東勝寺に集まって、全員自害して果て、北条幕府は遂に全滅してしまった。初めは僅か150騎ばかりの少人数ながらも義貞は英断をもって旗揚げした。それが勝ち進むとともに日頃から幕府に反感を強めていた各地の武将が合流し、遂に無敵と思われた幕府軍を破ったのであった。篠塚重廣自身も、先祖・畠山重忠二俣川の憤死の恨みを果たしたと思い、感無量であった。
戦争が終わってから、宝物庫から運び出した物を大将の義貞公に献上したところ、義貞公はそれを戦利品として太田に持ち返り、金山(群馬県太田市)の金龍寺に納めた。この戦利品の中に李龍眠の描いた「十六羅漢画像」があったことは後日分かった。
この新田軍の中にあって、四天王の一人と称えられた篠塚重廣のその後の活躍ぶりは、後述する。その武勇伝は『太平記』に克明に描かれている。篠塚重廣は、いってみれば『太平記』の”花形役者”であったわけだ。
渡辺嘉造伊著:「兜のほまれ」(?椛趨リ文化 1968)より
渡辺かぞい著:「古人の独り言」(?兜カ芸社 2003)より
十六羅漢画像
篠塚重廣が火炎に包まれた北条家の宝物庫の中から宋の国伝来の李龍眠の描いた「十六羅漢画像」を救い出して新田義貞に献じた。新田義貞はこれを戦利品として持ち帰り、太田の金龍寺に納めたが、現在は、茨城県龍ヶ崎市若柴の金龍寺に保存されている。これは曹洞宗開祖の道元禅師が宋に留学して帰国の時、理宗皇帝から賜ったものを帰国後に鎌倉の建長寺が建立される時、大覚禅師に贈り、北条家が取りあげて宝物庫に入れておいたものである。
まとめると、
理宗皇帝(宗の皇帝) →(賜る)→ 道元(曹洞宗開祖) →(贈る)→ 大覚禅師(建長寺開山) →(取り上げる)→ 北条家→(火災の中から救出)→ 篠塚重廣 →(献上)→ 新田義貞 →(奉納)→ 金龍寺(太田市) →(移管)→ 十六羅漢画像のうちの3枚(写真) 金龍寺(龍ヶ崎市) となる。
以前は国宝で現在、重要文化財である十六羅漢画像は、伊賀守が火災の中から取り出さなければ、灰燼に帰し、存在しないことになる。
篠塚重廣は鎌倉攻めの功績により後醍醐天皇から伊賀守を賜った。以降の文章は篠塚伊賀守と記述する。
建武の新政
元弘4年(1334)、正月29日、元号を建武とし、後醍醐天皇は徹底した天皇中心の政権を構想した。鎌倉幕府討伐の功績は足利尊氏を第一とし、新田義貞その他にもそれぞれの功績を表彰したが、鎌倉陥落の後、尊氏は細川兄弟を派遣して千(せん)壽(じゅ)王(おう)を補佐させたため、多くの武士は足利方の千壽王の方に集まった。そこで、義貞はやむなく上京した。一方、北条高時の遺児の高行が鎌倉目指して進撃してきたので、足利尊氏は天皇の許可を求めたが許可されず、無断でこれを討伐するために東下し、高行の軍を遠江に破った。
箱根竹の下の合戦
そこで後醍醐天皇は、尊氏を討伐するよう、新田義貞を派遣した。新田軍と足利軍は箱根の竹の下で戦い、破れた義貞は京都に敗走した。尊氏はこれを追って京都に進入したが、奥州から上洛してきた北畠顕家に逆襲され、いったん九州に落ち延びた。
三井寺の合戦
建武3年(1336)正月12日、新田義貞と北畠(きたばたけ)顕家(あきいえ)が近江の愛(え)智(ち)川に到着して戦(いくさ)評定(ひょうじょう)をし、敵の巣窟、三井寺(みいでら)(滋賀県大津市)を攻撃することになった。
当時、三井寺は足利方の細川定禅が6千余騎を引率して籠城しており、中から木戸を下ろし、堀にかけてあった橋の板を全部引き揚げてしまってあったので、なかなか攻め込むことができなかった。新田軍の大将の脇屋義助はこれを見て、
「頼りない者どもだ。たった一つの木戸のために、この寺を攻め落とせぬということがあるか。栗生、篠塚はおらぬか。あの木戸を打ち破れ。畑、亘理はいないか。斬り込め」
と下知した。篠塚伊賀守と栗生が馬から飛び降りた。
寺の前には深さ6メートルの堀があり、その両岸は切り立ったようになっている。橘の板は全部外してあって、橋げただけが残っている。篠塚伊賀守と栗生はどうしてここを渡ろうかと考え、そのまわりを見渡すと、近くの塚の上に幅1メートル、長さ18メートルもある大きな卒塔婆(そとば)が2本立っていた。「これはおあつらい向き」と、2人はやすやすと引き抜き、橋板として渡した。
今度は畑、亘理の2人が出て、「あなた方は橋渡しのお役目です。これから後の合戦は私どもにお任せあれ」と冗談をいい、橋の上を駆け渡り、木戸の前にある逆茂木(さかもぎ)を取り除き、木戸の脇に到着した。
これを防ぐ城内の兵たちは三方の矢間(矢を放つための小窓)から槍や長刀を出して突いたが、亘理はこれを奪い取り、畑はその塀を引き破って攻め込んだ。これで、三井寺はたちまち新田軍の手中に陥った。
世田城の合戦
しかしこの後、九州に逃れていた足利尊氏は大軍を率いて東上し、楠木正成を戦死させ、京都を制圧した。後醍醐天皇を廃し光明天皇を擁立、建武3年(1336)11月、京都に室町幕府を樹立した。
だが後醍醐天皇は、吉野に逃れて自らが正統の天皇であることを主張した。南朝の主要戦力であった義貞は越前での勢力づくりを目指したが、延元3年(1338)7月、越前藤鳥で戦死してしまった。後醍醐天皇も翌年、吉野で崩御なされた。
主君を失った篠塚伊賀守は脇屋義助に従って児島高徳ら70人と共に国府城に集まり、興国元年(1340)に美濃の黒丸、根屋、尾張の波津埼、2年9月に伊勢、伊賀を通り、10月初めに吉野に着き、脇屋義助が後村上天皇に拝謁して、藤島での義貞戦死の状況や、その後吉野にたどり着くまでの経過をご報告した。篠塚伊賀守たちは、民家に分宿して、長い間の行軍の疲れを癒していた。
暫くして、興国3年(1342)4月1日に脇屋義助は篠塚伊賀守ら500人を従えて、四国伊予(愛媛県)方面の南朝方の勢カの増強を図って、吉野から、千里浜-田辺-淡路-小豆鳥を経て4月23日に今張浦(愛媛県今治市)から国府城に入った。ところが5月11日に、不運にも脇屋義助が国分寺(愛媛県今治市)で急死してしまった。
この頃、世(せ)田山(たやま)(今治市、東予市、朝倉村の境界)を南朝方の伊豫国守護・大館氏明公が守っていたが、細川頼春の大軍に攻められて苦戦していたので、脇屋義助亡きあと、篠塚伊賀守が援軍として峰続きの笠松城に拠って対戦した。
世田山では細川軍と大館軍との壮烈な攻防戦が40有余日展開されたが、衆寡適せず遂に世田城は興国3年(1342)10月19日、落城した。
笠松城は初め頂上を岡武蔵守が守っていたが、白分は麓に下りて、頂上を篠塚伊賀守に提供してくれた。細川勢が攻めて来ると、まず麓の岡武蔵守が応戦したが討ち死にし、やがて頂上の篠塚伊賀守が応戦することになった。
篠塚伊賀守は世田城が落城したのを見て、ここで座して討ち死にするのも残念と、城門を開いて唯一人敵中に繰り出すことにした。4尺3寸の太刀と8尺余の棍棒を小脇に抱え、大音声(だいおんじょう)を張り上げて、
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。畠山庄司二郎重忠六世の孫にて新田殿にも一騎当千なりといわれた篠塚伊賀守重廣ここにあり。討ちとって勲功にあずかれい!」
と敵陣に躍り込んだ。伊賀守の名を敵味方の軍勢の中で誰一人知らない者はなく、近くの敵はさっと退いた。その中を篠塚伊賀守は悠々と通り過ぎた。
魚島、波崎へと渡り、その後
今張浦まで歩き、そこに舫(もや)っていた船に飛び乗り、水夫(かご)、舵取(かじと)りたちに頼んで沖の魚島(愛媛県上島町魚島)まで送り届けてもらった。船が出た途端、疲れた篠塚伊賀守がたちまち高いびきで寝てしまったので、水夫たちは度肝を抜かれたらしい。
魚鳥に着くと、島の人たちに歓迎されて、篠塚伊賀守は暫くこの島に住んでいたが、もう一度東国に帰って南朝方を再興しようと、村上水軍に依頼して船を仕立てて、豊後海峡を通って太平洋に出て黒潮に乗って常陸国の波崎(茨城県神栖市)に上陸した。
興国6年(1345)、波崎に上陸してみると、すでに常陸地方では、小田治久は北朝に降伏し、北畠(きたはたけ)親房(ちかふさ)が頼みとした結城親朝も北朝方として挙兵し、関宗祐、宗政父子、大宝の下妻政康も戦死して、南朝方は壊滅しており、北畠親房は関城を脱出して吉野へ帰ってしまっていた。
上野国は上杉憲定が守護で、新田地区は岩松氏の領地で、新田残党狩りが盛んに行われており、危険で帰れなかった。
波崎では、乗って来た船の碇石を近くの寺の庭に置き、篠塚本家(現在の篠塚茂男氏宅)に暫く滞在した後、船頭をこの地に残して、篠塚伊賀守一人で、足利幕府軍の手薄な利根川に沿って、生地に近い武蔵国豊嶋郡の茅原里に潜入して、そこに祀ってあった稲荷社の境内に落ち着いて時を待つことにした。
この頃渡田(川崎市)には亘理新左衛門が住んでいたが、多摩川は渡田より西側で、茅原里からは陸続きだったので、時々亘理新左衛門の所に会いに行ったりした。
稲荷社では、毎日熱心に新田家のために再起を祈っていたが、ある時、ふとまどろんだ間に神のお告げがあり、あなたの誠心の程は感心の至りだが、今すぐに新田家の戦勝を祈っても遂げられる運命にはない、今は身を隠して後世に望みを託することにせよ、とのことであった。
この有り難いお告げを信じて、篠塚伊賀守は帯剣を神に捧げて、ひとまずこの地を後にして、遠祖伝来の土地である足立遠元館跡を頼って、足立郡下の上野国に近い桶川東部か菖蒲町付近に身を潜めて暮らし、後世の再起を待つことにした。
この付近に潜居して内地の様子を探っていると、越前から脇屋義助に従って逃避行を続けて伊豫に行っている間に、内地の南朝方は足利方に降参するか、探索にあって殺されてしまって、生存しているものは一人もいないことが分かってきた。新田家の再興は、後世を待つより仕方がない状況であった。
渡辺かぞい著:「古人の独り言」((株)文芸社 2003)より
右写真の後ろの細長い石が碇石(いかりいし)であり、半分が地中にある。
大信寺御廟には、そのレプリカがあるので、ご覧いただきたい。
篠塚稲荷神社の管理者 清山氏は伊賀守の末裔といわれている。
碇石(茨城県神栖市波崎)
大信寺にある碇石のレプリカ
伊賀守の猛勇ぶり 太平記から
太平記とは太平記(たいへいき)は全40巻で、南北朝時代を舞台に、1318~1368年頃までの約50年間を書く軍記物語。作者・成立時期は不詳である。
その50年間とは、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、二代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までである。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。
現代の太平記を描いた作品として、山岡荘八『新太平記』、吉川英治『私本太平記』、森村誠一『太平記』、さいとう・たかを『太平記』マンガ日本の古典、太平記 (NHK大河ドラマ) がある。
太平記から篠塚伊賀守の活躍ぶりを紹介する。
新田義貞の鎌倉攻め
太平記に篠塚伊賀守が最初に登場するのは巻第10の新田義貞の鎌倉攻めで
「義貞四天王と云れける。栗生(くりう)、篠塚、由良新左衛門(ゆらしんざえもん)、畑六郎左衛門(はたろくろうさえもん)以下の若者共進出(すすみいで)、我先に彼武者と祖で、勝負を決せんと、馬を進めて相近づく。」
と篠塚の名前が登場するが、実際は、前述の通り生品神社の旗揚げから鎌倉攻めに登場し、猛勇ぶりを発揮している。
箱根竹ノ下の合戦
伊賀守の活躍が詳しく描写されているのは、箱根竹ノ下の合戦である。
この合戦では、鎌倉を拠点に定めた足利尊氏と、その征討を命じられて下向した新田義貞が、箱根で初めて激突した。
合戦は、公家武者の多い新田勢の搦手(からめて)を尊氏が奇襲し、さらに、新田勢に加わっていた大友貞戴と塩谷高貞が足利方に寝返ったために新田方の搦手が総崩れになってしまう。新田勢は京都で編成された寄せ集めの軍勢だったため、搦手が敗れたことが大手の軍勢に伝わると、優勢に戦っていた大手からも多くの将兵が逃げ出してしまい、合戦は新田勢の大敗に終わる。
篠塚伊賀守が活躍するのは、その退却戦の時。その場面を、現代語訳すると・・・
義貞が数百騎の残兵と共に伊豆の国府にさしかかると、一人の法師がやってきて、
「これは、どこに行こうというのですか。将軍(足利尊氏)の軍勢が伊豆の国府に充満していて、とても通れますまい」
と言った。
それを聞いて篠塚伊賀守と栗生左衛門は、鐙(あぶみ)を踏んばって伸び上がり、味方を見渡して、
「一騎当千の武者とはこの人々をこそ申すべき。
敵八十万騎に味方五百余騎、よきほどの相手なり。
いでいで駆け破って道開いて参らせん。続けや人々」
と、叫ぶやいなや、敵中に駆け入った。
その時、三千騎余りを率いて国府にいた一條次郎が、新田義貞を見つけて馳せ向かった。それを見た伊賀守がとっさに間に入り、一條をつかんで放り投げた。一條も大力の早業だったので、投げられても倒れず、よろめく足を踏み直して、なおも義貞に走り向かおうとした。
それを見て、伊賀守は馬から飛び降り、両膝合わせてさかさまに蹴倒す。倒れると同時に、一條に起きる隙を与えず、押さえ込んで首を取った。
一條の郎党達は、目の前で主人を討たれて無念と思い、馬から飛び降り飛び降り、篠塚に向かって討ってかかった。伊賀守は、すれちがっては蹴倒し、蹴倒しては首を取り、たちまち九人を討ち取ってしまった。これを見て、敢えて向かっていこうとする者もいなくなったので、義貞は難無く伊豆の国府を通過することができた。
三井寺の合戦 太平記から
箱根竹ノ下の合戦のあと、足利勢が上洛して京都を占拠し、後醍醐天皇方は比叡山を拠点として京都奪還を目指した。そこに、北畠顕家の率いる奥州勢が到着し、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の連合軍が比叡山の東麓の坂本に集結。まず、細川定禅と高大和守が立て籠もる三井寺を攻めることになる。
ところが、三井寺は、寺といっても実際は堀を巡らせた城郭で、堀に懸けてあった橋をはずされてしまったために、寄せ手は堀の前で攻めあぐんでしまう。
以下は太平記から。
脇屋義助(新田義貞の弟)が苛立って、
「言う甲斐無き者どもの作法かな。わずかの木戸一つに支えられて、これほどの小城を攻め落とさずという事やある。栗生、篠塚はなきか。あの木戸取って引き破れ。畑、亘理は無きか。切って入れ」
と下知したので、栗生左衛門と篠塚伊賀守が馬から飛び降りて、木戸を引き破ろうと走り寄った。
すると、塀の前に深さ二丈余りの堀があって、橋板が全部はずしてある。
二人が、どうして渡ろうかと左右を見ると、近くの塚の上に、幅三尺(約90cm)、長さ五六丈(15~18m)の大卒塔婆が二本立っていた。
「ここにちょうど良い橋板があるぞ。卒塔婆を立てるも橋を渡すも功徳は同じ(注:当時、橋を勧進するのは大きな功徳だった)。いざ、これで橋を渡さん。」
と言うやいなや、二人で走り寄って、一本ずつ「えいやっ」と引き抜く。地面を五六尺掘って立ててあったが、あたりの土が一二尺ほど崩れて、難無く卒塔婆を引き抜いてしまった。
二人は二本の大卒塔婆を軽々と運んで堀のかたわらに突き立て、まずは自讚を始めた。
「異国には烏獲(おうかく)、ハンカイ、我が朝には和泉小次郎、朝夷奈三郎、これ皆、世にならびなき大力と聞こゆれども、我らが力に幾程かまさるべき。言うところ傍若無人なりと思わん人は、寄せ合って力根のほどを御覧ぜよ」
言うやいなや、二本の卒塔婆を同時に向こう岸へ倒し懸けた。
すると、横から畑六郎左衛門と亘理新左衛門の二人が、
「御辺(ごへん)たちは橋渡(はしわたし)の判官(ほうがん)になりたまえ。我らは合戦をせん」
とふざけながら、卒塔婆の上をするすると渡り、木戸を蹴破って城の中に乗り込んだ。
世田城からの退却戦
太平記に記された篠塚伊賀守の最後の戦いは、伊予世田城からの退却戦である。
太平記によると、
このように人々が自害していく中で、篠塚伊賀守は大手の木戸を残らず押し開き、たった一人で現れた。
降参するのかと思って見ていると、そうではなくて、紺糸の鎧に鍬形打ったる兜の緒をしめ、四尺三寸(約1m29cm)の太刀を佩き、八尺(2m40cm)余りの金棒を小脇にかかえて、大音声で名乗りを上げた。
「外にては、定めて名をも聞きつらん。今近づいて、我を知れ。畠山庄司次郎重忠に六代の孫、武蔵国にそだって、新田殿に一人当千と頼まれたりし篠塚伊賀守ここにあり。討って勲功に預かれ」
言うやいなや、百騎ばかりの敵の中へ、少しもためらわずに走りかかった。その勢いが勇鋭だったばかりでなく、かねてから篠塚は大力で有名だったので、誰もこれをさえぎることができず、百騎余りの勢は東西にさっと引き退いて、道を開けて通してしまった。
しかし、篠塚は馬にも乗らず、弓矢も持たず、しかもたった一人だったので、
「どれほどのことがあろうか。近寄らずに遠矢で射殺せ。戻ってきたら、駆け悩まして討ち取れ」
と言って、藤・橘・伴の者ども二百騎余りが、後に付いて追いかけた。
篠塚はそれを見ても少しも騒がず、小歌を歌いながらしずしずと落ちて行く。
敵が「逃がすな」と追いかけると、立ち止まって、
「ああ、御辺たち、あまり近づいて、首と仲たがいすな」
とあざ笑い、例の金棒を振り回すので、追っ手は蜘蛛の子を散らすように逃げ散る。しばらくするとまた集まって来て後を追い、矢尻を揃えて射始める。
すると今度は、
「それがしが鎧には、方々のへろへろ矢は よも立ち候はじ。すはここを射よ」
と言って、うしろを向いて休息を取る。
それでも、篠塚を討ち取ることができればこの上ない名誉だったので、もしや討ち取ることができるのではないかと二百騎余りが追いかけた。
こうして、追いかける敵二百騎余りに六里の道を送られて、その日の夜半に、今治の浦に到着した。
ここから船に乗って隠岐島に落ちようと考え、船を探すと、敵が乗り捨てて水主(かこ)だけが残った船が多数沖合に浮かんでいた。
「これこそ我が物よ」
と喜んで、鎧を着たまま五町ばかり泳いで、そのうちの一艘の船にがばっと飛び乗った。
水主(かこ)、舵取(かじとり)が驚いて、
「これはいったい何者」
ととがめると、
「そう言うな。宮方の落人篠塚という者ぞ。急いでこの船を出して、隠岐島へ送れ」
と言って、二十人余りでないと持ち上げられない碇(いかり)をやすやすと引き上げ、十四五尋(ひろ)ある帆柱を軽々と押し立て、屋形の中に入って、高枕でいびきをかきながら眠り込んでしまった。
水主舵取たちはこれを見て、
「これは、なんということ。とても凡夫の業ではない」
と恐怖して、順風に帆をかけて隠岐島に送り届けたのち、いとまごいの挨拶をして戻って来た。
昔も今も勇士は多いが、こんなことは聞いたことがないと、篠塚を誉め讃えない者はいなかった。
芝蘭堂による現代語訳 許諾済
http://homepage1.nifty.com/sira/index.html
注 太平記では、伊賀守は、世田城を守っていたとあるが、史実は、世田城と峰続きの笠松城である。
四国の伊予の国に守護として赴任した大館氏明の援軍として、吉野から脇屋義助が、篠塚伊賀守たちを従えて出発し、四国今張浜から国府城に入った。
そこで、脇屋義助が病死したために篠塚伊賀守が援軍として、世田城と峰続きの笠松城に入って対峙した。
世田城では大館軍と細川軍が攻防戦を展開し、結局、興国3年10月19日に落城した。
笠松城は始め岡武蔵守が頂上にいたが、篠塚伊賀守に譲り、岡武蔵守は麓にいたが、細川軍に滅ぼされ、篠塚伊賀守は世田城が落城したのを見て、頂上の城門を開いて、一人で大勢の敵の中を歩いて今張浜まで行き、小舟で沖の島に上陸した。
篠塚伊賀守が渡ったという「隠岐島」は、太平記の原本に近いと考えられている神田本では「隠島」と表記されている。おそらく、本来は「いんのしま」と読んで、今治沖の因島を表していると考えられる。また、「隠岐島」を、因島の近くの魚島のこととする説もある。
魚島では夏に「てんてこ」という催しが行われ、これは篠塚伊賀守が島民に合戦の訓練を行った名残りの祭と言われており、また、この島には篠塚伊賀守の宝篋印塔(重要文化財)が残っている。
魚島全景
篠塚港にある観光案内図
太平記絵巻 第六巻(右上写真) 埼玉県立歴史と民族の博物館蔵
作者 海北友雪(かいほうゆうせつ)(1598~1677) 江戸時代初期に活躍した絵師
詞書について
大館左馬助ハ 細川頼春に 世田の城をせ めおとされ一人 ものこらずうち
志にしたり篠 塚伊賀守紺 糸のよろいに 鍬がたの甲の 緒をしめ四尺
三寸の太刀に 八尺あまりの かなさひぼうを わきにはさみ て二百騎ハかり
むらがりたる 中へわって入 り敵八方に わかりたれば 一人にをっかけられて
蛛の子を ちらすがごとく ちりにけり
現代語訳
大館左馬助は、細川頼春に世田の城を攻め落とされ、一人も残らず討ち死にした。
篠塚伊賀守は、紺糸の鎧にくわがたの兜の緒をしめ、1.3mの太刀に2.4mほどの金棒を小脇に抱えて、二百騎ほどが群がっている中へ分け入る。
すると、敵は八方に分かれ、一人に追っかけられて蜘蛛の子を散らすように逃げ散る。
伊賀守の怪力娘 伊賀局(いがのつぼね)
伊賀守の娘に篠塚伊賀局(いがのつぼね)(?~1384年10月)がいた。 三位局(さんみつのつぼね)廉子(れんし)(後の後醍醐天皇の后 新待(しんたい)賢門院(けんもんいん)に仕える侍女であり、後に楠木正成(くすのきまさしげ)の三男、楠木正儀(くすのきまさのり)に嫁いだ。
吉野拾遺(よしのしゅうい)(吉野の朝廷のことが記されている説話集)によると
伊賀局 化物に逢ふ事
後醍醐天皇が崩御され、後村上天皇が再び吉野の行宮に移った時も廉子が同行し、伊賀局もお供をした。
その時、正平2年(1347)6月10日の夜、暑い夏のことだったので、伊賀局は一人で庭に出てみると、大きな松の枝が垂れて、その間から月がこうこうと明るいので、思わず、
「涼しさを松吹く風にわすられて 袂(たもと)にやどす夜半の月影」
と、即興の歌を口ずさんだ。
すると、誰もいないと思った松のこずえかの方から、
「心静かであれば身もまた涼し」
という古い歌の下の句をいう者がいた。
見上げると、鬼の形をした化け物が翼を広げて伊賀局の方を見下ろしていた。
「あなたは一体何者です。名を名乗りなさい!」
というと、その化け物は、
「わたくしは、藤原の基遠(もととお)でございます。廉子さまのために命を捨てて働いた者ですが、いまだに死後を弔って貰えないのでこんな姿になっているのです。これでは浮かばれないので、恨みを言おうと思っていたのです。どうか、このことを廉子さまに申し上げて下さい。」
と叫びました。伊賀局は、
「世の中が乱れに乱れているので、廉子さまもお忘れになっているのでしょう。わたくしが申し上げて弔って上げましょう。その時、どんなお経を読んだら良いのでしょうか」
と聞くと、化け物は、
「法華経を読んで下さい」
といって、まもなくフっと姿を消してしまいました。
伊賀局は早速、廉子さまの前に行き、このことを話したところ、
「わたくしはすっかり忘れていました。本当に申し訳ないことでした」
と恐縮しておられました。
早速、翌日、吉水の法師に頼んで、37日の間、法華経を読んで貰いました。
お陰で、その後は藤原基遠も成仏することができたのか、化け物も出なくなりました。
伊賀局 吉野川にて高名の事
正平3年(1348)正月24日、吉野の行宮(あんぐう)も敵方の高師直(こうのもろなお)(足利尊氏の執事)に攻められたので、後村上天皇は山奥の賀名生(あのお)(奈良県西吉野村)に行宮を移され、母親の廉子さまも雪に閉ざされた吉野の山奥深くに難を避けられた。
その時、伊賀局もお供をしたが、吉野川の支流を渡って、賀名生までたどり着くのは容易なことではなかった。川は激しく流れ、かかっていた橋は朽ちて川に落ち、一行の行く手を阻んでいた。
皆ただ途方にくれていた時に、伊賀局は岸近くに雪にしだれていた松や桜の太い枝を引きちぎって急流にかけ渡して橋を作り上げ、ためらう廉子さまを背負って対岸に渡り、ようやく賀名生にたどり着くことができました。人々は伊賀局のことを「さすがに重廣殿の娘だ」と関心なされたようだ。
出展 吉野拾遺、現代語訳 渡辺かぞい著「古人の独り言」
伊賀局吉野川にて高名の事 伊賀局化物に逢ふ事 明治19年(1886年)大判錦絵 一魁斉氏 所蔵 写真提供
本来は、伊賀局が一部壊れた橋に木の枝を架けて渡ったのであろうが、後の時代には誇張されて、大木をなぎ倒し、それを向こう岸まで渡したとなってしまったのであろう。そのことから、伊賀守の娘もやはり怪力であったことになってしまったものと思われる。
伊賀局は、後に楠木正成の三男、楠木正儀に嫁いだ。
楠木正儀は、南朝方として、闘いの一番苦しいときに駆け回っていて、南北朝の戦いがいかに悲惨であるかを、身をもって感じていたようである。当時、南朝方にも講和派と主戦派があり、正儀は講和派の中心人物であった。後村上天皇の下で度々和平交渉に臨んでいたが、主戦派とは意見が合わず、とうとう北朝方に身を寄せた。南朝に敵対したのではなく、論争の場を失った主戦強攻派を討とうと、それらの陣の前にだけ現れたのである。
この展示会には、楠木正儀が和田一族に、元の通りにするという安堵状が展示されている。(右図)
【住職注】
この伊賀局が面白いのは、怪力娘が楠木正儀の奥さんになっていることだ。
楠木正儀は、どちらかといえば闘将、猛将というより知将というような人物。その奥さんが力自慢というアンバランス。現代の夫婦と似ていそうですね。
篠塚家伝来の什宝の経緯
江戸時代末期、篠塚家21代 篠塚重正は尊皇攘夷派の志士と交友があり、尊皇論を唱えるようになった。その言動は役人の知るところとなり、投獄され、慶応3年(1867)に30歳の若さで獄死し、一家断絶となった。
そのため、重正の子 嘉伊助は3歳の時、母(重正の妻)と共に母の実家に引き取られ、8年後に母が他家に再嫁したため孤児となった。嘉伊助は24歳の時、渡辺家の養子となった。
24代嘉造伊の代になり、茨城県坂東市(旧岩井市)幸田在住の篠塚分家に保管してあった670年前からの古文書等49点が篠塚宗本家である渡辺嘉造伊家に返還された。平成5年12月、それらは大信寺に保管されたが、この度、平成17年9月、大信寺へ寄贈された。
参考 篠塚家伝来の史料は、この他にも多数現存する。平成3年に坂東市(旧 岩井市)史料編纂委員会「岩井市史資料目録第一集」によれば、次の通りである。
篠塚 重雄家(篠塚 平八家) 460点
篠塚 俊朗家(篠塚 五郎右衛門家) 270点
篠塚 善一郎家(篠塚 茂左衛門家) 62点
渡辺 嘉造伊家(篠塚 孫次郎家) 6点