篠塚伊賀守は興国3年(1342年)に愛媛県今治の笠松城の落城を期に、一人で大勢の敵の中を歩いて今張浜(太平記には今治ではなく今張とある)まで行き、敵の小舟を乗っ取り沖の島に上陸した。 ここでいう沖の島とは、現在の魚島(愛媛県越智郡上島町魚島)で、篠塚伊賀守はここで、3年を過ごしたと言われている。
先代住職は、魚島を4回訪問したが、私は初めてである。その様子を綴ってみた。
因島土生港から乗船
2006年9月8日、広島空港へ到着後、レンタカーにて山陽自動車道を東進、尾道を通過し、しまなみ海道経由、因島の土生港(はぶこう)へ。 11時15分、魚島への渡船「ニューうおしま」に乗船。本来の船は現在ドック入りとのことで、小さな代船で1時間の船旅へ。途中、弓削港へ寄港後、一路、魚島を目指す。乗客は、因島の病院での診察帰りと買い物帰りの初老の女性2名、弓削港から乗船の中村支所長そして私の合計4名。その他、生活物資、郵便物であった。
土生港から魚島行き代船フェリーへ
魚島上陸
12時15分に魚島港(正式名称は篠塚港)到着。佐伯前村長がお出迎えに見えた。4階建ての魚島観光センターのレストラン「しおじ」にて、まずは昼食。新鮮なお刺身を食べたいと注文したが、それほど注文がないそうで用意はないとのこと。鯵の一夜干しを定食にして注文。鯵は冷凍庫から取り出して調理。食事中のお客は漁協関係者2名と郵便局職員1名のみ。 (残念なことに、魚島観光センターは2009年3月末で閉鎖した。よって、島内での宿泊と食事はできない。食料品店はある。)
役場支所前の観光案内看板
魚島港、右の青い建物が観光センター
魚島の概要
1時に上島町総合支所(旧魚島村役場)の旧村長室へ案内され、中村支所長と佐伯氏と歓談。ここで、持参した錦絵「伊賀守沖の島へ渡る」を贈呈した。これは、亀居神社へ奉納して下さるとのこと。また、特産の海苔を段ボール1箱と「魚島村史」をお土産として頂戴した。 その後、中村氏の運転で島内を見学。道路(県道)は幅員3メートルと狭く、対向車とのすれ違いは困難を極める。平地は殆どなく、住宅は港の周辺に軒を接するように密集している。路傍の随所に石仏が安置されている。これは島四国と呼ばれ、島内に四国八十八か所巡りを模したものだ。 平成16年10月に4町村が合併して上島町(かみじまちょう)となった時には、旧魚島村人口は290名ほどであったが、現在は260名ほどに減少し、高齢化率だけが高まったとのこと。 支所の住所表示は、愛媛県越智郡上島町魚島1番耕地1362番地1となっていて、小字名が篠塚である。
篠塚漁港にて佐伯氏と住職
篠塚公園
島の高台の一角に「篠塚さん」の看板があり、ボランティアによって整備された「篠塚公園」がある。村上水軍の見張所があったと言われている。村の財政が苦しくなったらここを掘るとよいと篠塚伊賀守が言い残された財宝伝説が残っている。 現在は、季節ごとに桜、水仙、あじさいなどが咲く公園として親しまれている。公園の一角に「南朝忠臣篠塚伊賀守墓所」の石碑があり、「今治展墓會参諸記念」「昭和九年六月四日」とある。現在、亀居八幡神社に鎮座する宝篋印塔は、かつてはここにあったが、伊賀守の墓地ではないことが判明したため分離したとのことである。
篠塚公園入口「篠塚さん」とある
篠塚公園に立つ石碑
篠塚公園の看板
亀居八幡神社
元禄6年創建、魚島の氏神様として人々から親しまれている。その規模は、小さな魚島から考えると驚くほど大きい。鳥居から百メートルほど進んだ先に大きく立派な本殿がある。近年、本殿の大修理を行った。境内には、島民はもとより、島出身者も百万円から数万円までの寄付者の石碑があり、信仰の篤さを垣間見ることができる。
亀居八幡神社
宝篋印塔
亀居八幡神社の境内には篠塚伊賀守の墓と伝えられていた宝篋印塔があるが実際は納経供養のため鎌倉時代に建立されたもの。高さ227cm。基壇を含めると247cmの国指定重要文化財。中央部の4面には梵字が刻まれている。
宝篋印塔
その看板、重要文化財とある
道福寺
かつては、篠塚寺であったが、檀家によって道福寺と改められた真言宗寺院。伊賀守が上陸後、滞在した所であるという。佐伯氏によると伊賀守は魚島に33~36歳の3年間滞在したそうだ。住職は遷化され、現在、その夫人が寺守をしている。 平成3年に本堂大改修の際の浄財名簿が境内の石碑に刻まれている。佐伯氏も建設委員の一人として、建設に消極的な委員を説得して、改修を進めたそうである。亀居八幡神社と同様に百万円からの寄付者名が刻まれた石碑があり、寄付者の三分の一は島外の方々である。近年島外の檀家で墓参の不便さから離檀が目立つとのこと。佐伯氏は死後も生まれ育ったこの島のこの墓から島の将来を見据えて行きたいとの思いから、墓地の島外への移転は絶対にしてほしくないと家族に話してあるとのこと。
道福寺
境内のお地蔵さん
本堂右にある地蔵堂
魚島小中学校
小学校と中学校が併設された大きくて立派な校舎が集落から離れた中腹にある。在校生は小学校5名、教員6名。中学校は生徒1名、教員5名であるが、教員は、ほとんどが単身赴任で、かつては、共同風呂であった教員宿舎は、現在では立派な宿舎が山裾に立っている。アメリカ出身の英語補助教員も配置されていて、役場支所で日本語の学習をしていた。話をしたところ、前任が任期満了で帰国したため、ボストンから8月に赴任したばかりであり、休日には釣りが楽しみとのこと。 私は麓から見上げただけであるが島の最高地点には水軍の見張台としての城跡があり、瀬戸内海の交通・軍事の要衝であったことがうかがえる。多分、伊賀守も水軍を頼って、ここまで、来たものと思われる。
テンテコ踊り
この島の最も有名で特徴的なものとして、毎年、盆の15日に開催されるテンテコ踊りが挙げられる。本来は砂浜を練り歩くものであったが、護岸工事などの影響で2年前から役場支所前のメインストリートに変更になったため、今ひとつ調子が乗らないそうだ。
医療体制
島で最も大きく立派な住宅は、診療所医師宿舎である。これは、診療所に隣接してあり、家賃、光熱費は無料と優遇されている。佐伯氏によると、離島に医師を常駐させるには、第1に給与、第2に充実した最新の医療設備、第3に住民からの尊敬と信頼だそうである。全国離島振興協議会会長を歴任した重みのある言葉であった。
帰り
島内の主なところを見学し終わり4時を迎えた。因島への最終便は5時15分であり、まだ1時間もある。 すると、役場の船が、途中の弓削まで出航するとのことで、それに便乗させていただいた。同乗した役場の職員は、かつては岩城村(因島の隣の島)の職員であったが、合併後に魚島支所へ転勤になり、単身赴任しているそうだ。今日、金曜日は1週間ぶりの帰宅とのこと。弓削には役場や国立弓削商船高専などもある町で、因島へのフェリーの便数は多く、わずか15分である。
魚島全景
因島
因島には村上水軍城が高台にある。現在は、城が復元され、歴史博物館が開館している。また、因島には村上姓が最も多いとのことを、食堂のおばさんから聞いた。
魚島へのアクセス
山陽新幹線で三原駅下車
三原駅 → 三原港 南へ300m
三原港 → 土生港(はぶこう) 高速艇で27分 約1時間毎に出航 1,500円
土生港 → 魚島港 8:00, 11:15, 15:35, 19:32の4便 所要時間1時間 1,000円
魚島港 → 土生港 7:00, 9:25, 13:10, 17:30の4便 (2009年4月現在)
筆者の場合は、広島空港からレンタカーにて、しまなみ海道経由、土生港へ